2019-08-31 08:25 | カテゴリ:雑談
最近韓国が・・・というか文大統領がヤバイですよね。
まぁ、あんまり韓国の悪口を書くと、気分悪くなる人もいるし、ここは逆に、昔韓国・・・というか朝鮮半島にいた外交の天才のお話です。
文大統領は就任時は「外交の天才」と言われていたようですが、そういう偽物でなくて、こちらは本当の外交の天才です。
※以下の内容は諸説あるので細かい事は突っ込まないでください。

西暦400年~700年頃の古代朝鮮半島は以下のような国に分かれていました。
20190825朝鮮半島
※ちなみに当時は日本が「日本」と名乗る前なので、中国が作った蔑称ですが、そういう他意はなく日本の事は当時呼ばれていた「倭」と表現します。

当時はとにかく高句麗一強でした。
↓476年頃の高句麗
20190825高句麗
漢や北魏や隋や唐等の中国王朝の攻撃や満州の騎馬民族の侵入を防ぎつつ、半島南部を支配した倭(前方後円墳の分布から明らか。また広開土王碑によると倭が百残・加羅・新羅を臣民となしたとある)を撃退し、新羅を属国にし、百済の首都を落とす無双ぶりでした。

そんな中、新羅に偉大な政治家が誕生します。
第29代新羅王(在位:654年 - 661年)金春秋(武烈王)とその息子で第30代新羅王(在位:661年 - 681年)文武王です。

・全方位のトップ外交で窮地を打開
※即位前なので厳密にはトップじゃないけど、実質的にはトップだった

金春秋は親族を百済に殺されていたため、百済を憎んでいました。
しかし、当時新羅は、伽耶地方を80年ぶりに百済に奪われ、また、唐を撃退して勢いに乗る高句麗の両国に圧迫されていました。
外交的に状況を打開しようと、まず敵国である高句麗に自ら使者となって行きましたが監禁され新羅軍が侵攻する事で開放されました。
次に百済を冊封していた倭に行き協力を求めますが、恐らく倭は冊封している百済を重視していたのでこの交渉も上手くいかなかったと思われます。
しかし日本書紀には以下のように記載されており、金春秋は容姿端麗で話術が上手かったと高評価されています。
『新羅遣上臣大阿飡金春秋等。送博士小徳高向黒麻呂。小山中中臣連押熊。来、献孔雀一隻。鸚鵡一隻。仍以春秋為質。春秋美姿顔善談咲。』
※「為質」とあるので、もしかしたら新羅も倭の冊封に入るために人質として金春秋自らやってきた可能性もありますが、恐らく大化の改新直後であり倭の敵情視察が主目的だったと思われます。
※冊封とは天子が周辺国の支配者を称号・任命書・印章などの授受を媒介として王として権威権力を認める事により結ぶ君臣関係ですが、その君臣関係は表向きの外交手段(軍事衝突なしで安全保障のみでなく軍事同盟を結べるメリットが支配国・被支配国共に大きかった)であり、実体は冊封を結んでいても状況に応じて外交・軍事的対立をする事もあった。

そして最後に金春秋が頼ったのが唐です。
太宗の厚遇を受け、官位を与えられると息子を人質として差し出し、元号を唐と統一し、即位後は開府儀同三司・新羅王、さらには楽浪郡王に封じられ、唐の冊封に入りました。
これは即ち他国が新羅を攻めたら唐を敵に回すことを意味していました。
新羅の唐化を推し進め、いち早く律令国家(=法治国家。日本が律令国家になる50年前)として内政に力を入れて国力を高めました。

・唐を利用して宿敵百済を滅ぼす

軍事面においては高句麗・百済の再三の攻撃(両国は麗済同盟を結んでいた)を唐と協力して撃退、ついには唐軍13万、新羅軍5万の連合軍で百済を滅ぼしました。
その後、唐の高句麗遠征に参加中に金春秋は亡くなり、息子の文武王が即位しました。

唐の高句麗遠征は失敗するも文武王はその支援により唐から開府儀同三司・上柱国・楽浪郡王・新羅王に冊封されました。
百済の遺臣鬼室福信が冊封のため倭に滞在(人質)していた百済王子扶余豊璋を担いで百済復興の反乱を起こし、倭も百済救援軍を派遣するも、これを唐・新羅連合軍が白村江で全滅(白村江の戦い)させ百済再興はここについえました。

・唐を利用して強敵高句麗を滅ぼす

唐に高句麗への遠征を要請し、新羅軍も合流、ついに高句麗を滅ぼしました。

・半島の他勢力を滅ぼすも一転最大のピンチとなる

百済・高句麗を滅ぼすも、唐はそこを都督府・都護府としたばかりでなく、新羅をも鶏林州都督府として半島を唐の地方政府化していきました。
文武王は鶏林州大都督に任命されましたが、それは冊封体制ではなく羈縻政策と言われる、中国の支配を冊封よりも強化したものでした。
冊封・・・他国の王と認め支配下とする
羈縻・・・中国の地方政府の長官に任命する
このままでは新羅が唐を利用して半島を統一したのではなく、新羅が唐に利用されて半島が唐の地方政府化する事になってしまいます。
かといって唐に表立って反旗を翻すと、唐は待ってましたとばかりに倭と結んで新羅を攻め滅ぼす事は明らかでした。
遠交近攻・・・遠きに交まじはり近きを攻む 『兵法三十六計の第二十三計』
これは中国の伝統的な戦術で、まさに新羅と組んで百済・高句麗を滅ぼしたのがこれに当たり、次は倭と組んで新羅を滅ぼすのが必然だったからです。
唐と表立って戦わずに唐を半島から追い出す・・・史上かつてない外交戦の幕開けです。

・冊封制度を最大限利用して外交戦を展開

唐と表立って戦わない事が必須条件であるため、唐との冊封関係は死守します。
その上で、新羅に亡命していた高句麗王族の安勝に高句麗亡命政権を旧百済領南部に樹立させ、高句麗王として冊封する事で旧高句麗領の支配権を主張し、新羅は唐の地方政府ではなく、唐と同等の他国を冊封する独立した宗主国である事を匂わせます。
その上でさらに、高句麗亡命政権を倭に朝貢させ、高句麗亡命政権が倭の支配下に入る事で、唐と倭が組んで挟撃する遠交近攻策を封じます。
※唐からしたら一応新羅を冊封しているので攻めれない
※倭からしたら朝貢してきた高句麗亡命政権(及びその保護国である新羅)は攻めにくい
※朝貢は冊封の君主国に対して封じられている国が貢物をするのが基本ですが、冊封(君臣)関係になくても貢物をして外交的な繋がりを持ったり、貿易のために行う事もありました。
冊封という中国が作った制度を最大限利用し、機先を制し外交的に敵を動けなくしていきました。

・外交で敵の動きを封じた後は軍事力行使

さすがに新羅による高句麗亡命政権の冊封は唐も看過出来ず新羅を叱責するも、戦う条件は整ったと判断した文武王は旧百済領を巡ってついに唐と軍事衝突!唐・新羅戦争の火蓋は切って落とされました。
勿論新羅が高句麗王に冊封していた安勝の高句麗亡命政権も新羅側で参戦。
両軍は旧百済領内に侵攻すると、次々と唐の城を落としていきました。
勿論唐が激怒して新羅の冊封を解除すると、すかさず謝罪使を送って冊封関係は維持、しかし旧百済領への侵攻は止めない。
新羅は謝罪と侵攻を繰り返し、ついに唐に半島の支配を諦め撤退させる事に成功しました。

・勝っても戦線を拡大せず的確な戦後処理

ここで問題となるのは旧高句麗領です。
旧高句麗領は朝鮮半島北部だけでなく、中国大陸内陸部まで広がっていたため、通常であれば勝っている新羅はこの支配までも目論む所ですが、文武王は朝鮮半島の支配だけで唐と和解、見事な引き際を見せます。
勝っている内に戦争を止める・・・これが出来ていれば第二次世界大戦の日本も違った運命を辿れたはずです。
また、終戦後、文武王は高句麗亡命政権の安勝に妹を嫁がせ、旧百済臣民を登用し、三か国の融和に努めますが、最終的には謀反をきっかけに高句麗亡命政権を取り潰し、旧高句麗領南部(=朝鮮半島北部)を掌握し、ここに歴史上初めての半島統一を成し遂げました。
その後、旧高句麗領の内、中国大陸部分は高句麗遺民が渤海という国を建国します。
唐と渤海の間に戦争が始まると新羅は唐に味方し、その功績として唐から浿江以南の土地を冊封され、これにて名実共に朝鮮半島は新羅に統一されました。

・巧みな外交は半島統一後も続く

半島を統一した後もしばらく新羅は日本(この頃倭は自らを日本と呼称していた)に朝貢し続けます。
理由は渤海を牽制するためです。
20190825渤海國
渤海の領土はこのように新羅より広く、唐・渤海・新羅の関係は流動的でしたが、高句麗遺民によって建国された渤海は当然、旧高句麗領である朝鮮半島北部の奪還を目指します。
そのため渤海は日本に朝貢し軍事同盟を結び、遠交近攻策で共に新羅を挟撃しようとしたのです(藤原仲麻呂の乱により計画は頓挫)。
それを防ぐために新羅も日本に朝貢していました。
プライドを捨てて実益を取っていたのです。
今の韓国に一番欠けているのがこれです。
どう考えても日本と仲良くしていた方が全てにおいて上手く行くのに、プライドが邪魔をして日本と仲良くする事が出来ません。

それどころか、新羅が日本に朝貢していたという史実すら認めようとしません。
新羅が日本に朝貢するわけないだろ!韓国「日本が再びわい曲」と批判
日本に朝貢していたのは決して日本が強くて日本に屈服していたからではありません。
外交の一環で戦略的に朝貢制度を利用していただけであり、むしろ見事な外交を誇るべきです。

当時の天才的な新羅の外交と比べたら文ちゃんの外交なんて外交と呼べる代物ですらありません。
武烈王・文武王が泣いてるよ。

==蛇足==

因みに、上記の渤海の地図を見て貰ったら分かる通り、古代は平壌って唐の領土だったんです。
んで、渤海は今は北朝鮮・中国・ロシア領になっています。
この辺りが、半島有事が起きた際に、現北朝鮮の北部を中国とロシアが侵略する歴史的な口実にならなければいいですけどね。
というか、中国は高句麗自体が大陸の騎馬民族が建国した国家だったと主張して、その領土だった朝鮮半島の北半分(=現北朝鮮領)は中国が支配するのが歴史的に正しいって暗に主張してますよね。

これを調べてて初めて知ったんですけど、済州島って耽羅国っていう独立王国がなんと15世紀まで存在してたんですね・・・
基本的に朝鮮半島を支配した国に内属しながら、日本にも朝貢をしてたそうです。
元が高麗を支配した時は、元に対する反乱軍の最後の拠点(三別抄の乱)になって、それが元によって制圧されてからは、元は騎馬民族ですから馬の産地になったそうです。
近現代では朝鮮戦争時に島民だけで民主的に島の将来をどうするか決めようとしたのが北の反乱分子とされて、韓国軍や民間自警団によって3万人の島民が虐殺されて、それから逃れるために多くの難民が日本に逃げて在日韓国人になったそうです。
尚、済州島は大韓民国に強制的に組み込まれました。
島民の文化や気質は日本人に近いそうで、韓国って「対馬は韓国領」って言ってますが、その無理な理論がまかり通るなら、逆に日本も「済州島は日本領」って主張しちゃえばいいのにねって思いました。
まぁ100%面倒くさい事になるのでそれはやってはいけませんが。
かの国とは一切関わらないのが一番です。

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