判断の快楽と毒性、ストレスとやる気、愛の正体

セミリタイア作家で医師の内山直さんのブログでイチオシとして紹介されていた、「反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な考え方(2015)草薙龍瞬著」を読みました。

ストレスの多い現代社会でどの様な考え方をすれば幸せに生きることが出来るのかという大問題に関して、ブッダの考えに基づいて具体的な解決方法を提供しているとても興味深い本でした。

特に仏教色の強い本というわけでもなく、神様の話でお茶を濁すわけでもなく、淡々と論理的に説明がなされており、納得できる部分が多かったです。

例によって個人的に気になった部分をまとめます。

 

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 反応しない練習とは? 

「反応しない練習」を教えてくれるのは、古代インドの賢者”目覚めた人”ブッダです。

もともと、ブッダの教えとは「心の無駄な反応止めることで、一切の悩み・苦しみを抜ける方法」のことです。その内容は大きく二つ。①こころの反応を見ること、②合理的に考えること、です。

①「心の反応をみる」とは、お馴染みの「座禅」や最近よく聞くマインドフルネスやヴィパッサナー瞑想のこと。面白いことに、心の反応・心の動きをよく見れば、ざわついた心は静かになります。これは、ストレス解消、気分転換にもってこいの方法です。

また、②「合理的に考える」とは、目的が叶うよう、筋を通して考えること。

この本での私たちの目的は「無駄に反応しない」「悩みを増やさないこと」です。

 

 悩みを解決に導く思考法 

ブッダは、悩み・問題の解決の手順を、次の四つにシンプルにまとめています。

 生きることには”苦しみ”が伴う。

 苦しみには”原因”がある。 

 苦しみを”取り除く”ことができる。

 苦しみを取り除く”方法”がある。

仏教の世界はこれを”四つの心理”(四聖諦)と呼んでいます。一見すれば明らかですが、これは「何かを信じれば救われる」という宗教ではありません。「こう考えれば、悩み・苦しみを抜け出せる」というシンプルな思考法です。

 

 「無駄な反応をしない」心がけの必要性 

人は悩みに直面した時に、つい反応して「闘おう」としてしまいます。不愉快な相手、ままならない現実に真っ向から向き合って、反応して、なんとか変えてみせよう、打ち勝ってみせようと、もがき、あがきます。

しかし真相は、「闘って勝てる」ことは、人生にはほとんどありません。あなたが、どんな地位や権力や財産を手に入れても、あなたが今以上に「強く」なっても、「ままならない現実」は、いつもそばにあり続けるでしょう。2500年前にブッダが語った「人生には苦しみが伴う」という現実は、永久の真理です。その現実は「闘う」という発想だけでは、決して乗り越えることはできません

新しい生き方、もっと合理的な考え方が必要とされているのです。

その合理的な考え方の一つが、「無駄な反応しない」という心がけです。

 

 判断の快楽 

「判断」は自分の性格にも影響します。「こうでなければ」という思い込みは、「潔癖さ」や「完璧主義頑」「張りすぎてしまう」性格を作り出します。「自分はダメな人間だ」という自己否定のレッテルにもなります。

「どうせ失敗するに決まっている」「私にはそれだけの能力がない」と、一人で「結論を出してしまっている」こともあります。これらは全部「判断」です。

こうしてみると、「判断」がいかに私たちの人生を支配しているかが、見えてきます。人の心には、例外なく、判断しすぎる心があるのです。

 

なぜ人は、自分のこと、他人のこと、さらには人生の目的や、生きることの意味まで、あれこれと「判断」したがるのでしょうか。

それは、判断する心には、分かった気になれる気持ちよさと、自分が正しいと思える(承認欲を満たせる)快楽があるのです。だからみんな判断することに夢中です。判断が、ただ気持ち良いだけなら、問題ないのかもしれません。しかし、その思いに執着しすぎると、自分か、誰かが、激しく苦しめられることになります。

 

 「判断」はときに「猛毒」になる 

「人は三つの執着によって苦しむ。①求めるものを得たいという執着(だが叶わない)②手にしたものがいつまでも続くと続くようにという執着(やがて必ず失われる)③苦痛となっている物事を無くしたいという執着である(だが思い通りにはなくならない)。

では、これらの苦しみが止むとは、どういう状態なのだろうか。それは、苦しい現実そのものではなく、苦しみの原因である”執着”が完全に止んだ状態なのだ。」

 

人が苦しみを感じる時、その心は必ず「執着」があります。本来心は、さらさらと流れ続ける小川のように、苦しみを残さないはずなのに、執着ゆえに、滞り、苦しみを生んでいるのです。苦しんでいるのが、自分であれ、相手であれ、誰かが苦しんでいるなら、何かが間違っています。

「このままではいけないのだ」と、目を醒ましてください。

 

ブッタの考えに照らして、こう考えましょう。

「かなわなかった過去の願い」が、苦しみを生んでいる。

「失敗した」(こんなはずではない)という判断が、苦しみを生んでいる。

「相手はこうでなければ」という期待・要求が苦しみを生んでいる。

これらの「執着」を手放さなければーでないと、自分も相手も、苦しみ続けてしまう。

 

「これこそが正しいと主張することを、私はしない。

見解の執着を、ただの執着であると理解して、

他者が陥る過ちを過ちとして理解しつつも、囚われることはない。

私は自らの心の状態を見つめて、心の平安と澄明さを保つ。」

 

 比べるという暇つぶし 

「比較」というのは、実は、とても不合理な思考です。

というのは、ひとつの理由は、比較という心の働きは、そもそも実在しない、バーチャルな妄想でしかないことーだから、手応え(実感)を得られません。二つ目は、比較しても自分の状況が変わるわけではないことーだから、いつまでも安心できません。三つ目は、比較によって安心を得たいなら、絶対・完全に優位な立場に立っていなければいけませんが、それは実際には不可能であることーだから、常に不満が残ります。こうして見ると「比較する」というのは、かなり不合理な、不毛な思考です。

それでもなぜ比較に流されてしまうのかといえば、端的に「妄想に慣れているから」ではないでしょうか。妄想はたやすい。妄想には慣れている。現実は変わらないけど、「比べる」ことならすぐにできる。たまに優越感を持てることもある。だから、つい比べてしまうー。

つまり比較してる状態とは、妄想という「暇つぶし」と変わらないのです。

 

 ストレスとやる気 

心は快か不快かの二者択一の反応をしています。”不快”を感じた心は、その場から逃避しようとします(それが、「ストレス」です)。

他方”快”を感じれば、心はその対象に執着します(それが「やる気」です)その心の性質を活かすなら、”快”を感じられるように環境を改善してばしていけばいいのです。ここは楽しんでください。

 

「愛」の正体と「愛」への招待 

ここで、ブッダが教える、人生の大きな心構えー世界に対する向き合い方を知っておきましょう。それは、慈・悲・喜・捨と呼ばれる四つの心がけです。

慈【慈しみの心】ーこれは、相手の幸せを願う心です。自分の都合や要求を通すことではなく、純粋に「相手が幸せであるように」と願う心のことです。

悲【悲の心】ーこれは、相手の苦しみ・悲しみをそのまま理解すること、相手の「悲」に共感することです。

喜【喜びの心】ーこれは、相手の喜び・楽しさをそのまま理解すること・相手の「喜」に共感することです。

捨【捨の心」ーこれは、手放す心、捨てる置く心、反応しない心です。「中立心」ともいいます。例えば、欲や怒りという反応に気づいて、ストップをかける心がけです。

 

世間ではこれらをまとめて「愛」と表現しています。

 

 Tochiの勝手な感想 

文章が非常に上手で説得力が有り、説明も論理的でわかりやすかったです。モヤッとした悩みを解体することで、それぞれのパーツの性質と解決方法を提示しており、科学でやる還元主義を精神世界に応用した様な印象を受けました。

慢性的な悩み事に対しては、ここに書かれていることを実践するだけである程度は軽減できそうに思えました。一方で、「哲学は過去の不幸と未来の不幸をたやすく克服する。しかし現在の不幸は哲学を克服する(ラ・ロシュフコー)」とも言われるように、現在に激痛を感じている人には、こんな流暢なことを実践している余裕はきっとないだろうし、効果も大して期待できないのではないかという気もしました。

「心頭滅却すれば火もまた涼し」は達人だけに可能な技で、普通の人は激アツなだけですから。

 

とは言え、人の悩みは古くから共通しているものなので、その解決法として開発され、時の試練にも打ち勝ってきた「ブッダの教え」は、慢性的・普遍的な悩みの効果的な処方箋の1つであることは間違いないのではないでしょうか。

 

コメント

  1. ふぉろ より:

    セミリタイアも自由なり嫌なことからの脱出なり何らかに執着した結果のものだろうからな
    執着なしじゃセミリタイアすらできない。

    • Tochi より:

      確かに(笑)
      と言うことは、執着には「いい結果を生む執着」と、「苦しみしか生まない執着」が有り、苦しみしか生まない執着であればいっそ手放した方がいいということなんでしょうね。

      え、だったら一体どうやって執着の良し悪しを見分けるの?
      ムズぃ・・。

      快か不快かで判断するのが一つの方法かもですね。

      • ふぉろ より:

        俺が思うに生き方に答えなどないというのが一番ましな答えなんじゃないだろうか?

        • Tochi より:

          勿論「答えなどない」でもいいですし、誰かの考えに乗ってもいいし、それぞれが自分にとって一番都合のいい物を選べばいいのではないでしょうか。価値観も行き方も普遍的なものではないでしょうし、この様な仏教のアイデアはサラリーマンにはやや非現実的な気もしますので。

          ただ、もし所属している社会から押し付けられている価値観が息苦しい人は、他の価値観を(も)持つ方が都合がいい事は多いだろうと思います。(まあ、不都合なこともそれなりに有りそうですが・・)