幸せが続かない理由、自我の役割、モジュールによる意思決定、瞑想による感覚の調整

セミリタイア作家で医師の内山直さんのブログでイチオシとして紹介されていた、「なぜ今、仏教なのか 瞑想・マインドフルネス・悟りの科学(2020)ロバート・ライト著」を読みました。

瞑想は単にストレスを解消をするだけではなく、感覚による錯覚を調整できる手法であることから真実により近づけるものだし、悟りや無我、無色、空といった神秘体験にも通じる物であると力説している仏教色の強い本でした。

客観的な科学的実験と単なる主観とを無理やり結びつけ、そこに宗教の概念をも無理やり混ぜ込むという荒業を行っている内容で、科学真理教のTochiとしては拒否反応が強く、読むのにかなり苦労しましたが、とはいえ瞑想自体は現代社会をストレスフルに感じている人には大いに助けになりそうだなと感じました。

例によって個人的に気になったところをまとめてみました。

 

スポンサーリンク

 自然選択の目的と幸せの不継続 

一種の思考実験として、自然選択を「設計者」と考え、自分がその立場になってこう自問してみるのも一つの手だろう。もし遺伝子を拡散するのが上手い生物を作りたいなら、どう設計すればそれにふさわしい目的を生物が追求するようになるだろう。言い換えると、食べること、セックスすること、仲間を感心させること、競争相手を打ち負かすことが祖先にとって遺伝子を拡散するのに役立ったとすれば、こうした目標を追求させるためにどのような脳を設計するのするのだろう?

このように考えた設計方針を組み合わせると、ブッダが解き明かした人間の苦しみをかなり納得のいく形で説明できる。確かに、ブッダの言う通り快楽は一瞬で消えうせる。そして、確かに再び不満が残る。快楽が速やかに消えるように設計されている理由は、続いて起こる不満によって私たちに更なる快楽を追及させるためだ。所詮、自然は私たちが幸せになることを「望んで」はいないのだ。私たちが多産であることを「望んで」いるだけだ。そして、私たちを多産にする方法は、快楽への期待を狂おしいものにしつつ、快楽そのものは長く続かないようにすることだ。

 

 たくさんの心による意思の決定 

自我がCEOなどではなく、監督しているつもりの行動を全て監督しているのでないなら、行動はどのように監督されているのだろう。意思決定はどのようになされるのだろう。

心理学、特に進化心理学の分野で一般的になりつつある答えは、心が「モジュール」的な構造をしているというものだ。この考え方では、人間の心はたくさんの専門家されたモジュールー状況を判断して対処するための機能単位ーからなっていて、人の行動を決定づけるのはこうしたモジュールの相互作用だ。そして相互作用の大半は本人が意識することなく起きている

 

 自意識の存在理由 

なぜ私たちの意識ある心は理性のプレゼンテーションをこうして目撃すること、つまりこの「審議」に出席することにわざわざ時間を割くのだろう。これがただの見せしめ裁判なら、つまりそれぞれの論拠を固めるために何でもいいから理屈をかき集めたモジュール間の権力闘争に過ぎないなら、全て潜在意識のレベルでやってしまうことはできないものだろうか。そうすれば意識ある心が自由に何か建設的なこと、例えば心身問題に取り組むようなこともできる。でも思い出してほしい。意識ある心は世の中と意思の疎通をする部分であるため、宣伝担当者のようなものだ。クルツバンの考えでは、意識ある心が討議を見守り、勝利を収めた理由付けまで見届けるのは、「誰かに説明を求められたり、なぜ〇〇や△△や☓☓をしたのか尋ねられたりした時」もっともらしい理由付けを引っ張り出すためだ。

 

宣伝を担当する装置を脳に組み込むとすれば、まさに自我のようなものになるだろう。人類学者のジェローム・バーコウは次のように書いている。「自我の主な進化上の役割は(素朴心理学の言うような意思決定機関になることではなく)印象操作機関になることだと言っていい」。一つだけ付け加えるなら、素朴心理学者自体にも進化上の役割があるかもしれない。自分を有能な正直者だとアピールするには、自分の自我の力を信じていなければならないからだ。

 

 瞑想によって感覚を調整できる理由 

原則的に、ほとんどのマインドフルネス瞑想は、モジュールに力を与えていた正の強化を取り上げることだと言っていい。感覚をマインドフルに観察している時は、感覚を生じさせたモジュールが何らかの褒美にありつくことを防いでいる場合が多いからだ。誰かに対する憎しみの感覚を観察し、その感覚をただ観察し続けると、憎しみの感覚は普段ならしてしまうことー例えばあなたの憎しみを買った相手の振る舞いに復讐する方法を考えさせるようなことーをやらかさない。

 

マインドフルネス瞑想は、行動の原因になるものに対して注意深くなること、つまり知覚が内的状態にどう影響するかや、ある内的状態が別の内的状態や行動にどう繋がるの繋がるかに対して注意深くなることだ。また、影響の連鎖の中で感覚が果たしているように見える重要な役割に対して注意深くなることでもある。感覚にそのような役割を持たせたのは自然選択であり、自然選択は脳のプログラミングの一部として感覚を都合よく調整してきたように見える。重要なことに、この影響の連鎖への気づきをもたらす瞑想実践は、そこに介入して影響のパターンを変える力も私たちに与えてくれる。

 

 Tochiの勝手な感想 

意思が無意識下におけるモジュール間の競合によって決定されるという説は経験的にも大いに納得が出来るし、様々な領域における無意識下の情報処理が統合されるることで言動を出力する脳の仕組みから考えても腑に落ちる説でとても面白かった。

ではなぜ我々はあたかも意思(自我)がある様に錯覚してしまうのかという謎に対する説明も、昔読んだ本の「意識はエピソード記憶をするためにこそ存在している」という説は今一ピンと来なかったが、自我は他者に対する宣伝担当者として存在している、というこの本の説はそれよりも遥かに納得しやすかった。

 

とはいえ、宣伝の役割を主に担っている方法が言語だとすると、喋れるのは人間だけなのに(昆虫はどうかわからないが)喋れない犬でも猫でもヒトに劣らず強い意思がある様に見えることがやや矛盾している気がするし、他者に対する宣伝に価値があるのは我々が社会的な生き物であるからなので、だったらより社会性の乏しい動物は全自動で意思もないのかと言ったら恐らくそんなことは無いのではないかという気もするので、今ひとつ何かが足りていない様な気がした。

 

また、ここでは取り上げなかったが、著者は瞑想によって真実(感覚という錯覚を付加されていない実態)を認知しやすくなると固く信じているようで、瞑想で得られた神秘体験や、瞑想によって感情に支配されづらくなることなどをその根拠としていたが、個人的には真実に近づいたというその感覚自体も(悟りや無我、無色、空と同様に)単なる錯覚でしかない様にしか思えなかった。

とはいえ、感情は極めてタイムリーなものなので、瞑想を挟むことでタイムリーさを失わせるという手法自体は、それでもなお、感情に振り回されてストレスフルな生活を送っている我々にとっては大いに助けになる様に思えた。

 

 

・・・ただ気になったのは、忙しさ故にストレスフルな人が毎日30-60分も瞑想の時間を取ることが現実的に可能なのかという点。結局はお金も時間もタップリある上流階級のインテリ向けなのかなぁ・・😌

コメント